船が出発してから小一時間がたった。
目的地であるミネラルタウンはまだ見えない。
隣でクレアがきゃ、と声をあげた。
見ると、トランクケースに入った書類が風に煽られ飛ばされそうになっているところだった。
「なにやってるの?」
ピートが訊ねる。
「なにやってるのじゃないでしょー! 土地とか遺産の手続きの書類! ピートが見ようともしないからわざわざ持ってきてやったのに!」
「だって俺そんなの興味ないし」
「興味なくてもちゃんと目を通す! あんたのじいさんが残してくれた唯一のものなんだから」
はいはいと答えると、ピートは素直に受け取りそれを眺めた。
「あーめんどくさいなー。クレア書いちゃってよ」
「そんなの許されるわけないでしょ?」
「そうなの? いつもやってるのに」
「だからいつも本当はやっちゃいけないんだって!」
クレアはぶつぶつ言いながらも、そばにあった白いテーブルの上でサインを始めた。
誰かがクレアの後ろを通り過ぎようとして、ぶつかる。
「わわ!」
インクはサインの欄を大幅にはみ出し、紙もくしゃっと折れてしまう。
その人物は謝りもせず、隣の男と話しながら立ち去ろうとする。
「ちょっと、謝ったらどう?」
いくぶん不機嫌なそぶりを隠そうともしないでクレアが言った。
ピートが止める暇もなかった。
その人物は振り向くと、品定めをするようにピートとクレアを見た。
彼の袖口のカフスはある大手の会社のロゴマーク入りだった。
「ガキがなに威張ってるんだ」
「子供じゃないわ。あなたが老けてるだけじゃないの」
男は不快さを隠そうともせずに表情にだす。
「ちょっとやめなよ」
ピートが止めに入るがクレアは耳を貸さない。
「ジェイク様、こんなやつらに関わるだけ時間の無駄です」
秘書らしき人が言うが、ジェイクはちらりと書類に目をやった。
そこに書かれてるサインをみて、ふんと呟く。
「……ピート……あの小さい成り上がり会社の息子か。じゃあその書類はあの牧場のだな?」
「だったらなに? そんなことより言うべきことがあるんじゃないの?」
「……時間の無駄だな」
そう呟くと、ジェイクは足元にあったトランクケースをけった。
鍵がはずれ、また書類がバラバラになる。
「あ!」
クレアは慌ててそれをかき集める。
その間に彼らは船の中に入ってしまった。
「なによあいつ!」
クレアは憤慨しながら言う。
「いやクレアもそんなことでいちいち怒らなくても」
ピートは白いインクを使って先ほどのサインを修正していく。
「でも、妙だな」
「なにが?」
「いいや、なんでもない」
そして言いかけた二つの疑問を心の中で呟いた。
なんで僕のことを知っていて、これが牧場の書類だってわかったんだろう。
ミネラルタウンについた。
そこでみたのは荒れ果てている牧場だった。
「嘘……」
クレアは言う。
隣にいるピートはなにも言わない。
雑草の生い茂った荒野を、ただ見つめている。
「すまないが、おじいさんが倒れてから管理するものが誰もいなくてね」
と町長であるトーマスが言った。
「じいさんの遺言どおり、この土地は親族が権利を主張しなければ、ミネラルタウンに寄付されることになっている。それでいいかい?」
「いいよね、ピート」
「もともとそのつもりできたんだろ?」
淡々とした答えだった。
トーマスはすまなそうな顔をする。
「じゃああとで宿屋に書類を持っていくよ。それまで観光していればいい。自然だけは誇れる町だから」
女神の泉と呼ばれるところに二人はいた。
「なつかしーなここ」
クレアが泉を覗き込む。
上からの滝の水しぶきを受けながらも水は透き通っている。
「ピート覚えてる? ほら、ここの温泉に入ったよね。ここの熱いから、私あまり好きじゃなかったんだけど」
「……」
「あのころはまだいっしょにおふろ入れたんだよね。そして温泉たまご作ったりさ」
「……」
「春はタケノコが生えるんだよね。ほら、ここ! もう大きくなりすぎてるけれど」
「……」
「滝の後ろには採掘場があって、探検してドロだらけになったり」
「……」
「そしたらやっぱりまた温泉に入れられたり」
「……」
「頂上とかも上ってみたいけれど、今回はもう時間ないよね」
「……」
「ピート聞いてる?」
「……」
「ねえ」
「……やっぱり」
とピートは言う。
「ショックだよな。ああいう状態なのをみると」
さきほどの牧場のことだとぴんときた。
クレアは笑う。
「じゃあ、牧場やってみる?」
「無理だろ? それよりはミネラルタウンに寄付して残してもらったほうが、じいさんも喜ぶよ」
「やっぱり、死に目に会えなかったこと後悔してる?」
「だからそれはクレアが代わりに行ってきてくれたんだろ?」
「おじいさん、なんて言ったと思う?」
「知らない」
鐘がなった。
もう五時をまわった証拠だ。
その鐘の音にわざと被せるようにして、クレアは言った。
「なにも言わなかったよ」
次の日の朝、クレア誰かに起こされた。
「んーなによー、あと五分だけー」
「クレア、起きてよ!」
「なんだピート? もうまだ寝かせてよ。昨日遅かったんだから」
クレアは低血圧なためか朝にとても弱い。
「それどころじゃないんだって!」
そしてピートはそれを伝えた。
クレアが跳ね起きる。
「それ本当?」
「どうしよう?」
「どうしようじゃないわよまったく!」
そしてすぐに上着を取ると、パジャマの上からそれを着た。
靴下も履かずに靴を履くと、牧場へと走り出した。
そこはおじいさんの牧場だった。
荒れ放題なのは変わらない。
しかし生えていた木は既にすべて切り倒されており、
ショベルカーは土地を平らにするために地面を掘り返して、埋まっていた石や岩はそばに積み立てている。
「なにやってんのよ!」
そうクレアは叫ぶ。
しかし作業中の彼らに聞こえるはずもない。
「ちょっとトーマス町長! 話が違うじゃない!」
入り口付近にいた町長にクレアはつかみかかる。
彼も予想外の出来事らしく、おろおろとしている。
「いや、私にはなにがなんだかさっぱり」
「嘘つかないでよ!」
「騒々しいな」
そういって出てきたのは船であったあの男だった。
「ジェイクさん……」
ピートが呟く。
「なにあんた知りあいだったわけ?」
ピートはこっそりと耳打ちをする。
「いや顔は知らないけれど、俺の親会社のライバル会社社長だぞ? 普通名前くらいは知ってるだろ」
「悪かったわね知らなくて!」
「トーマス。土地を売った相手が悪かったな」
「あいつがこんなこと……するはずがない」
トーマスがうめくようにいう。
「そうだろうな。だが俺の会社に借金があるあいつは、こころよく土地の使用承諾をしてくれたぞ」
「だが遺言で……」
「どうせ誰もこの牧場を継がないのだろう? それならばレジャーランドにしてしまったほうがこの町を活性化できる」
「勝手に話を進めない!」
クレアだ。
ジェイクはめざわりなものをみるように一瞥してから。
「気になっていたが、このうるさい女は誰だ?」
「その子は――」
トーマスが答えようとする。
「牧場をやるわ!」
「え?」
それにクレア以外の全員がおどろく。
「しかし親族以外は――」
「孫はピートという男が一人いるだけだ」
ジェイクが言った。
「そしてそいつ以外に、じいさんの直縁の親族はいない。そうだろ?」
確認するようにトーマスに問いかける。
トーマスは頷こうとして。
「だからこいつがピートよ!」
「はあ?」
そういったのは本物のピートだ。
「こいつがそのピートで! 牧場を立て直すっていってるの! 言葉通じてる?」
長い沈黙があった。
一番おちつきがないのはピートだ。
「わかった」
ジェイクは言った。
「三年間、待ってやろう」
宿屋に帰るなり、ピートは部屋の鍵をしめた。
「クレアなに言い出すんだよ! 俺ができるわけないだろ!」
「あたりまえじゃない」
あっさりと答えるクレア。
「じゃあなんでそんなことをいいだしたんだ? このままじゃただじゃすまないよ?」
「私がやるんだもの」
「は?」
「私がピートになってここで暮らすっていってるのよ」
「でもひと月ごとに監視をよこすって……」
「あいつがじきじきにくるはずないじゃない。幸いあんたの顔なんて誰も知らないんだから。その時だけ乗り切れば……」
クレアが出した案はピートのフリをしてミネラルタウンに住むことだった。
帽子をとったクレアを見て、ピートはぎょっとした顔を見せた。
「なによその顔」
「いや、本気なんだなって」
「あたりまえでしょ」
そう言い放つとクレアは短く茶色い髪をかきあげた。
「髪切って色を変えることぐらい、これからしようとしていることに比べればどうってことないわよ」
もともと中性的な顔つきをしていたこともあって、化粧を落とし、体つきを隠すためのゆるい服を着こんでしまえば遠めにはなんとかごまかせるようだった。
部屋を空っぽにしてしまうと、クレアは鍵をかけた。
あとは管理人に鍵を返すだけだった。
「クレア」
ピートが呼び止める。
「……ごめん」
「ちょっとなに言っているのよ?」
「あの場所は俺の思い出の場所で、それなら俺が継ぐべきだったんだ」
「馬鹿。将来有望の次期社長が会社ほっぽりだしてどうするのよ?」
「でも……」
「それにあの場所は私の思い出の場所でもあるの。ピートの為じゃない、私の為よ」
それは事実であったが、お人よしのピートには気をつかわせないように言っている方便のように聞こえているらしい。
クレアはなんとかなっとくさせようと言葉を探しているうちに、ピートはカバンの中から青い帽子を取り出した。
「なにこれ?」
「餞別」
その青い帽子の意味を知っていたから、クレアはなにも言わずにそれを受け取った。
***
肩まで伸びた髪の先にはまだ茶色が残っている。
それは昔一年間、ピートとして過ごした証だ。
染め直すのも切るのも億劫で、そのままになっている。
元長編ネタなので展開の速さは見逃してください。
男装の令嬢ネタを自分なりに消化したもの。
ピートとクレアは都会の幼馴染で、小さいころ牧場へ遊びに来たという設定。
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